新しいアカウントを作成するのが面倒なので、昔使っていたのを復活させる。この機会に昔書いていた記事を読み返したのだがやはり恥ずかしい。消すべきなのだろうか。まぁ現在の個人情報を出さなければ人に知られることもないからいいか。しかし、知人に私がこんなことを書いてると知られたら死にたくなるな、マジで。一人で読んでいるときでさえ、思わずギャッとしてしまうのに。

http://www.kobe-np.co.jp/kobenews/sg/0000012387.shtml
JR西日本は二十七日、尼崎脱線事故から一年となる四月二十五日に催す追悼行事「福知山線列車事故追悼慰霊式」の式次第を発表した。慰霊の対象は犠牲になった乗客百六人で、事故を起こした高見隆二郎運転士=当時(23)=は除いた。
               (中略)
 JR西は慰霊式の内容を遺族アンケートを踏まえて決定。慰霊の対象は、運転士を含め百七人とすべきだとする声もあったが、百六人を希望する意見が上回った。

日本では仏教的な価値観から「死んだらみな仏」という価値があったらしいが、この記事を見る限りその傾向は消えつつある。ところで日本人の大半は自分自身を無宗教であるとかんがえていることを多くの統計調査が示している。一方で初詣に代表されるように宗教的行為は盛んである。ということは宗教的事象のなかにも衰えゆくものとそうでないものに分かれるらしい。
二つの例から、内面的なものは廃れ形式的外観だけが残っているのではないかという仮説をたてたくなる。(もちろん、ひどく乱暴な仮説であるが)
いわゆる”原始的”な復讐観念が仏教的宗教観に取って代わったというのはあまりに過激な言い方だろうか。そういえば昔こんなことを習った。

正法千年、像法千年、末法一万年

もちろん今は末法の時代に当たるw

「教養」の文章は参考になりました

普通に文章をかく能力もなく、へこむ。


言いたいことはたくさんあるけど、手短に。
コメント欄が使えないのでここに書く。

どこぞの特定のデザイナーが考案したものが社会に供給され、人々はそれを金と引き換えに買って着ているだけである。そこには個性も何もない。

どこぞの誰かが作ったものを金と引き換えに消費するのは、あらゆる消費物にいえることである。およそ現代社会は金と引き換えに消費を楽しむ文化が多数なのに、どうしてファッションだけを非難するのかがわからない。だからfer-mat氏が批判するなら、現代の消費構造そのものを批判すべきなのである。それを見落として、ファッションを攻撃するのは視野狭窄ではないだろうか。

またここから無個性を引き出すことはできない。人は消費対象を解釈するから。

反論おくれ。


追記:tekitou
1:私は消費文化を肯定している。 「だって楽しいんだもん@NHK

2:映画や音楽や文学と同様に、ファッションにも批評の余地は存在している。表象文化論がファッションをカバーしていることからも明らかである。

3:現代は消費するだけで、そこに個性はないという論も可能だが、私はそれを認めたくない。解釈の差異が存在しているからである。その差異は発信者によって意図された単純なものであるかもしれないが、私は差異から何かが生まれると信じたい。これは批評である。

http://d.hatena.ne.jp/fer-mat/20050203

読む本
リチャード・ワーマン『情報選択の時代』
ディヴィッド・シェンクは『ハイテク過食症




ぼうけんのしょをつくりますか」
「いいえ」
ぼうけんのしょをつくりますか」
「いいえ」
ぼうけんのしょをつくりますか」
「いいえ」
こうしてエンドレスな禅問答が始まった。

助け出した姫様に恋を告げられれば断ることなんてできない。
「わたしをいっしょうあいしてくださいますか」
「いいえ」
「うそ、あなたはそんなかたじゃないわ。だからわたしをいっしょうあいしてくださいますか」
「いいえ」
「うそ、あなたはそんなかたじゃないわ。だからわたしをいっしょうあいしてくださいますか」




http://d.hatena.ne.jp/mezu/20040921